「ロシアの怪僧グリゴリー・ラスプーチン」あなたもその名を一度は聞いたことがあるかもしれない。「名探偵コナン 世紀末の魔術師」や「アナスタシア」など、数多くの映画やドラマの登場人物として描かれている。
悪役としてそれなりに人気のある歴史上人物だが、グリゴリー・ラスプーチンとは一体誰なのか?何をした人なのか?謎に満ちたその生涯を、今日は紐解いていきましょう。

聖母マリアを幻視した超人「グリゴリー・ラスプーチン」概要
まず最初に、グリゴリー・ラスプーチンについての概要をご紹介します。
名前 | グリゴリー・ラスプーチン 本名「グリゴリー・エフィモヴィチ・ラスプーチン 露「ригорий Ефимович Распутин」 |
生誕 | 1869年1月21日(ユリウス暦1月9日) |
死没 | 1916年12月30日(ユリウス暦12月17日) |
死因 | ユスポフ一派による暗殺 |
出身 | ロシアのシベリア、トボリスク県にある「ポクロフスコエ村」 |
職業 | 農民/祈祷僧(自称) |
配偶者 | プラスコヴィア・フョードロヴナ・ドゥブロヴィナ |
子供 | ドミトリー、バーバラ、マリア・ラスプーチナ |
その生涯は「奇怪な逸話」に彩られ、人間離れした能力や怪異な容貌から「神の人」「怪僧」「怪物」などと形容されました。後に、ロシア帝国崩壊(ロマノフ王朝滅亡)の一因をつくりだしたために、歴史的な人物評は極めて低いようです。
しかしその反面、映画や小説など大衆向けフィクションの「悪役」として、非常に高い人気を誇っています。怪僧という特異なキャラクターが、今日まで知られる所以となったのです。
生まれは「農家」キリスト教派・巡礼にのめり込んだラスプーチン
グリゴリー・ラスプーチン(以下、ラスプーチン)は、1869年1月21日(ユリウス暦1月9日)、ロシアのシベリア、トボリスク県にある寒村「ポクロフスコエ村」の農夫「エフィム・ヤコブレヴィチ・ラスプーチン」とその妻「アンナ・パルシュコヴァ」の第5子として誕生しました。
農家の生まれだったラスプーチンは学校には通わず、読み書きが出来ませんでした。(1897年のロシア政府の国勢調査によると、当時では割と普通の事だったようです。)素行不良で粗暴な若者だったラスプーチンですが、ロシア正教会スコプツィ教派の教義に傾倒(熱中)し、徐々に指導者としての頭角を表していくことになります。
ロシア正教会「スコプツィ教派」とは?
18世紀のロシアで生まれたキリスト教の教派の1つ。この世の諸悪の根源は肉欲であるとし、これを根絶する目的として信者は男性も女性も皆「去勢」を行っていた。霊的キリスト教に分類され、カルト宗教として異端視されることも多い。
しかし、教派は信者の結婚を否定する訳ではなく、信者は結婚し子供を残した後、去勢することが多かったため、教派が消滅することはなかったと言う。
ラスプーチンに至っては修道誓約をしておらず、後に表面上は教会に忠誠を尽くしているような態度を見せ、彼の信者であった者たちと「自ら神の罰を受けるため」として、如何わしい儀式などを行なったとされる。
その後ラスプーチンは、1887年(この時19歳)に「プラスコヴィア・フョードロヴナ・ドゥブロヴィナ」と言う女性と結婚し3人の子供を授かります。その時に誕生したのが、ドミトリー、マリア、バーバラです。
マリアは、ロシア皇帝ニコライ2世に取り入ったり、父ラスプーチンに関する回顧録を執筆しました。回顧録については、執筆の内容があまりにも中立性に欠けているとされ、信憑性を疑問視されています。
「神の人」誕生。巡礼の旅を続け神秘主義者の寵愛を受ける
結婚し子供を授かった後も、ラスプーチンの巡礼者としての熱意は冷めず、唐突に家族へ「巡礼に出る」と言い残し、村を出て行ってしまいます。(1892年の事)
一説によると、ラスプーチンは野良仕事をしていた時に、聖母マリアの啓示を受けた(幻視した)と言われています。
ラスプーチンはVerkhoturyeの男性修道院で数ヶ月を過ごし、そこで出会ったミハイル・ポリカルポフ(修道士)に強い影響を受け、禁酒・肉食を控えるようになりました。再び家族の元へ戻って来た時には、非常に熱心な修行僧になっていたそう。
1903年、再び村を離れ巡礼の旅に出かけたラスプーチンは、キエフ・ペチェールシク大修道院を巡ります。さらには、シベリアの魔術師としてロシアの首都カザンにまでその名を広め、司教や上流階級の人々の注目を集める存在へと成長していきました。
学校には通わず、十分な教育を受けていなかったラスプーチンですが、自らは神の選ばれた一人であることを創造し、その熱心な姿勢や人々への助けが、さらにより多くの人々に好感を与えていったとされます。
数ヶ月の巡礼後、ラスプーチンは仲間と共に教会建設の寄付金を集めるため、バルト海に面したロシアの港湾都市「サンクトペテルブルク」を訪れます。そこでラスプーチンは、自分の感銘を受けたと言うワシーリー・ビストロフ(当時、ロシア唯一の禁欲主義の司教)に出会い、彼の宿舎に移り住むこととなりました。
サンクトペテルブルク滞在中も、人々に病気治療をすることで信者を増やしていったラスプーチンはその内に「神の人」と呼ばれるようになります。
噂はどんどん広まり、神秘主義者だったロシアの大公妃ミリツァ、アナスタシア姉妹からの寵愛を受けるようになると、ある時その姉妹の紹介で「ロシア皇帝ニコライ2世」と「アレクサンドラ皇后」に謁見することに。
これが、ある意味でロシア帝国崩壊の道を辿る運命の出会いとなります。
神秘主義とは?
エクスタシーやヴィジョンなど「神」と1つになる体験を通して、神との内的な関係を探ろうとする特別な思想、哲学・宗教上の考え方のこと。
私たちは皆、「神」や「絶対者」といった存在そのモノ全て・究極の何かと融合できる。雨粒が海に解けるように、分かれていたモノが最後は一つになれる。人と神もまた同じという。
例えば「宇宙は元々1つだった」とか「生命は皆1つの海から誕生した」「母なる大地へ帰る」みたいな言葉を思い浮かべると理解しやすいかもしれません。仏教でいう「悟り」がそれにあたるでしょう。
「我らの友人」皇帝夫妻から絶大な信頼を勝ち取ったラスプーチンの飛躍
ニコライ2世はラスプーチンに、爆弾テロで負傷した政治家ピョートルの娘の治癒や、血友病患者であったアレクセイ皇太子の治癒を要請します。
血友病とは?
出血を止める3つの要素の内、血を固めるための「血液凝固因子」が、生まれつき不足・欠乏しており、出血がなかなか止まらなくなってしまう病気です。些細な怪我でも過度の出血や出血再発の危険があり、時に生命をも脅かす可能性があります。
要請を受けたラスプーチンは、見事それらの病を治して見せました。まだ多くの人々は、ラスプーチンをただのペテン師だと考えていましたが、この出来事から、ラスプーチンとロシア帝国は深く結びついていくこととなったのです。
やりたい放題だった?「怪僧」と呼ばれた男ラスプーチン
宮廷を出入りするようになったラスプーチンは、アレクサンドラ皇后をはじめ宮廷貴族の女性たちから、盲目的な支持・信仰を集めるようになります。その反面、ラスプーチンが皇帝夫妻に容易に謁見できることについては、次第に多くの貴族たちが嫉妬心を抱くようにもなっていきました。
1907年頃になると、教派を私利私欲に利用していたとして、ラスプーチンは理解者だった一部の仲間も含め、多くの人々から非難を受けることとなります。中には、追放を画策する者も現れました。
1912年初頭には、ロシアで最も嫌われる人物の一人となっていたラスプーチン。問題発言などもあり、翌年1913年に調査を受けることになったものの、彼の理解者であった、ニコライ2世やトボリスク司教のお陰で調査は中止。難を逃れたのでした。
ついに暗殺事件が…!ラスプーチンの運命やいかに?
1914年、故郷ポクロフスコエ村へ帰郷していたラスプーチンは、自宅で男(キオーニャ)に短剣で襲われます。ラスプーチンは腹部を刺されたものの、なんとか反撃し、一命を取り留めました。
この頃には、ラスプーチンを批判していた関係者たちはほとんどが、失脚や追放・逃亡していましたが、この事件を最後に、遂にラスプーチンを批判する者はいなくなったと言います。
ただし、批判する者がいなくなっただけであり、陥れようとする者はまだまだ存在したようです。
政治的影響力の拡大とロシア帝国崩壊(ロマノフ王朝)の衰退


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ラスプーチンが政治に影響力を持つようになると、ロシア帝国(ロマノフ王朝)と近隣国の関係も悪化し始めた。直ぐに終わると思われていた戦争は長期化し、食糧や資源不足により、ロシアは日に日に弱体化の道を辿ることになります。
ロシア国内は混乱し、遂に「反皇帝派」が誕生します。「ニコライ2世とアレクサンドラ皇后は完全にラスプーチン操られている…」「ラスプーチンとアレクサンドラ皇后はドイツのスパイだ」そんな批判の声や噂が政界に広まりました。
暗殺前夜と和平交渉の決裂と
1916年、ドイツはロシアとの和平交渉を模索しますが、これに対しニコライ2世は、和平交渉を行うつもりがないことを宣言。戦況が変わることはありませんでした。
また、その頃ラスプーチンはというと、自身の預金を娘マリアの銀行口座へ移していますが、死期を悟ったというよりは、政界から足を洗う準備をしていた可能性が高いと推測されます。
そして同年12月16日午後3時頃、外出先から自宅のアパートへ戻ったラスプーチンは、貴族ユスポフの屋敷への招待状を受け取ります。その際には、内務大臣のプロトポポフから「今夜は外出を控えるように」との忠告も受けていました。
暗殺の決行。強靭な肉体を持った怪物ラスプーチンの最期とは
1916年12月17日、ラスプーチンはユスポフ一派によって暗殺されました。
17日深夜、ユスポフはモイカ宮殿にラスプーチンを招待すると、防音設備が施された部屋へ案内します。そこは、ラスプーチン暗殺のためだけにワインセラーを改築した、特別な部屋でした。
部屋の窓際にはラスプーチンが好むワインが置かれていたとされ、近くの応接室には暗殺メンバーが集まり息を潜めていた。
ユスポフは直ぐに暗殺を決行。青酸カリを盛ったプチフールと紅茶をラスプーチンに用意したといいます。ラスプーチンはまんまと毒入りの食事を平らげましたが、なんの変化も示さなかったため、ユスポフを驚愕させました。
しかし数時間後、ラスプーチンが泥酔したことを確認すると、ユスポフは応接室で待機していた暗殺メンバーの一人ドミトリー大公から、リボルバー(銃)を受け取ります。
ユスポフは部屋に戻り、ラスプーチンの背後から2発発砲。銃弾は見事に心臓と肺を貫通、ラスプーチンはそのまま床へ倒れ込みました。しかし、それでもラスプーチンは死なずに起き上がったのです。これにはユスポフも震え上がり、慌てて階段を駆け上がり中庭に逃れます。
今度は騒ぎを聞き付けた別の者が、ラスプーチンに向かって銃を4発発砲。内3発は外れ、1発が背骨を貫通し、ラスプーチンは雪の上で再び倒れました。
今度こそ…!と思われましたが、それでもラスプーチンは起き上がったため、ユスポフは靴でラスプーチンの右目を殴り、さらに額を拳銃で打ち抜きました。
その後、ユスポフたちは、ラスプーチンの遺体を車で運び、凍りついたネヴァ川氷を割って、橋の上から遺体を投棄、証拠隠滅を図りました。しかしこの時、宮廷近辺をパトロールしていた警察に、車で出て行く姿を目撃されてし待ったのでした。
世紀末の魔術師とロシア帝国の崩壊(ロマノフ王朝滅亡)
同日の早朝、警察はラスプーチンのアパートを訪れ、娘のマリアに父親の行方について尋ねると、直ぐに失踪したことが分かり捜査が始まりました。
後日ラスプーチンの遺体も発見されます。ラスプーチンは手足をロープで縛られており、死因は頭部を狙撃されたためと結論付けられましたが、この報告書が消失してしまい、事実は今も不明のままとなっています。
一説では、ラスプーチンの死因は溺死であり、川に投げ込まれるまでは生きていたとも言われています。
尚、ユスポフと暗殺メンバーたちは真っ先に犯行を疑われらものの、ロシア有数の大貴族であったことから警察の捜査を逃れ、捜査資料も大半が消失したため事件は迷宮入り。ラスプーチンの死に関する様々な逸話が残されることとなりました。
ラスプーチンの死後、暫し時が経ち翌年1917年。
政治は一向に上向く気配を見せず、人々はロシアの問題の原因はラスプーチンではなく、常に引き籠り続け、有効な手段を講じなかったニコライ2世にあると感じるようになっていました。
そして同年3月2日、遂に帝政ロシアは終わりを迎えます。
政治家グチコフとワシーリー・シュリギンは、都市プスコフの大本営を訪れたニコライ2世に退位を求めると、ニコライ2世はその場で退位を宣言・署名しました。
こうしてロシア帝国(ロマノフ王朝)は崩壊し、新しい時代が幕を開けたのでした。
ラスプーチン波乱万丈の生涯。謎はこれからも永遠に残り続ける






こうしてみると、ラスプーチンは生前、巡礼者として多くの人に好かれ、政治関係者としては多くの人に嫌われたということが分かります。それ故か、後世に残された逸話には彼の2面性が垣間見えるモノばかり。
(と言っても逸話のほとんどは、彼を陥れるために作られた、嘘の内容が多いそうなので、より2面性を感じやすくなっているのかも。)
逸話が逸話を呼ぶ、なんとも不思議な男ラスプーチン。今後も彼を題材とした映画やアニメは尽きることなく生まれてくることでしょう♪
参考:
・ウィキペディア(Wikipedia)- グリゴリー・ラスプーチン
・ウィキペディア(Wikipedia)- ロマノフ朝
・甦るロシア帝国 (文春文庫)
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